日本をより理解するための傑作記事(ひらがなタイムズ誌面より)
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差別、失恋、苦難の末の成功

チャイナリニア株式会社
代表取締役 董 翠さん

東京・品川駅を降りて近代的な街並みに沿って歩いていくと、31階建てのきれいなマンションがある。その12階に、中国語教室、二胡教室を開いている会社がある。このチャイナリニア株式会社、代表取締役の董翠さんは、子どもの頃から広い世界で働きたいと夢を追い続け、実現させた人だ。1997年に来日した。

翠さんは、中国・大連で6人姉妹の3番目に生まれた。中国の戸籍は「都市」と「農村」に分かれており、基本的に農村戸籍の持ち主はその人の能力に関係なく、都市で働くことはできない。農村戸籍の翠さんは中学校を卒業すると、ある農業専門校へ進んだ。奨学金制度があったからだ。

農業学校を卒業後、美容室を開き苦労して軌道に乗せたその後、大連の会社で働き始めた。寮がある以外、何の保証もなかったが、都市で働くための第一歩だった。ある日営業で、ある企業の社長に会いに行ったが、社長室には誰もいなかった。翠さんはそこで社長が戻るのを待ちながらその間にかかってきた電話に出てメモをとった。翠さんと話した社長は言った。「うちの広報部へ来てくれないか」。こうして、毎月きちんと給料がもらえるようになった。

ある日転機が訪れる。初恋−−相手は日本に留学し、日本企業に就職した人だった。翠さんは上海勤務になった彼についていった。しかし待っていたのはやはり戸籍の問題だった。今度は農村戸籍だけでなく、上海市外出身であることに彼の母親が反対した。

中国では子どもは母親の戸籍に入るので、翠さんが上海市内戸籍でないと将来子どもの教育に大きな問題になる、というのが理由だった。翠さんは決意した。もう戸籍とは関係のないところで暮らしたい。「日本しか思いつきませんでした」。彼に日本への留学手続きを頼み、運良く一回でビザを取ることができた。

翠さんは過労とストレスで体調を崩しながら勉強とアルバイトを両立させた。そして卒業して日本企業に就職することができた。しかし毎日同じことを繰り返す事務職は翠さんの肌にあわなかった。中国語教室で講師を始めることにしたが、すぐに辞めることになる。その教室の指導法と教材に大きな疑問を感じたのだ。

本格的な中国語の指導を目指すのなら自分の教室を持たなければ、と翠さんは思った。一念発起して教材を作り、自分の教室を開く。「最初は簡単だと思っていましたが、すぐにそうではないと気がつきました」。その頃翠さんは就職ビザを持っていたのだが、会社を辞めた。そしてこの起業に向けての活動すべてが「資格外活動」であり違法だった。

翠さんは大急ぎで会社を設立し、経営者ビザ取得という唯一の賭けに臨んだ。1ヶ月後、入国管理局からの知らせを受ける。「知らなかったといって許されることではありません。今回限りは大目に見ますが、これからは充分気をつけるように」。翠さんはパスポートを握りしめた。涙があふれるのを抑えることができなかったという。

起業に向けて準備している間も、翠さんは発音指導の研究を休まなかった。そこには口の筋肉の動き、舌の位置など発音の基礎訓練が含まれる。その甲斐あって生徒から「日本人にとって中国語学習の一番の壁は発音ですが、先生の教え方は、まさにそれを乗り越える唯一の指導方法ではないかと思います」「発音がきれいと褒められるようになり、自信がつきました」という声が翠さんの元へ届く。

中国語教室を始めて1年後、二胡教室を開いた。約3ヶ月で簡単な曲が弾けるようになり、音色はリラックス効果もあるという。発表会では二胡の演奏だけでなく中国語教室の生徒が詩の朗読や劇をする。「ただ言葉を覚えるだけではなく、中国人の一番いいところ−−きちんと自己アピールができるところも取り入れて欲しいですから」。

「私は誰?と迷うくらい悩み、もがいていた日々もありました。独立して一人でやるのは大変ですが、やはり自分の好きなことを自分の考えで仕事することが私には一番向いています。将来は銀座にお店が開けたらいいですね。素敵なチャイナドレスがあるので紹介したいですし、もっと中国の文化を伝えたい。この仕事にはたくさんの新しい出逢いがあって楽しいですね。今は自由になった気がします。背筋を伸ばして歩けるようになりました」。

チャイナリニア株式会社
www.chinalinear.com

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