| 日本をもっと知る - 歴史 | |
| 条約締結に利用された美人芸者 "唐人お吉" 19世紀、欧米列強は200年以上も鎖国の続いた日本に開港を迫っていた。アメリカの初代日本総領事であったタウンゼント・ハリスは、静岡県の下田に滞在し、日本と通商条約を結ぶための準備をしていた。しかし、激務のために体調を崩し、地元の役人に身の回りの世話をする看護婦を依頼した。 日本側はハリスが妾を望んでいると解釈した。当時、アジア諸国は欧米と不平等条約を結ばされていた。そこで幕府は、これを交渉の有利な材料に使おうと考えた。そして、斉藤きち(1841〜1891)が候補にあがった。当時17歳で、下田一美人と評判の人気芸者だ。彼女は、幼いときに養子に出され、その後独り身となったが鶴松という婚約者がいた。 当時の日本人は外国人を恐ろしい人間と偏見の目で見ていた。役人から国のためと甘い言葉で執拗に依頼された。お吉は渋々受け入れてしまう。世間はお吉に同情した。だが、次第に着飾るようになったお吉に、その同情は嫉妬に変った。そして、籠に乗ってハリスのもとへ通うお吉に、外国人を軽蔑するときに使われる「唐人」の罵声を浴びせた。 お吉は高額な給料をもらい、ハリスの妾になったともいわれる。しかし、純粋に介護しただけという説が強い。実際ハリスのもとにいたのは2日とも2 年ともいわれ、はっきりしたことはわからない。だが、「外国の男と寝た女」というイメージが出来上がり、いつしか「唐人お吉」と呼ばれるようになる。冷たい差別に耐えかねたお吉は、横浜で働く鶴松と再会した。二人の恋は再び燃え上がり、晴れて結ばれる。 二人は下田に戻って暮した。 鶴松は船大工となり、お吉は髪結業(現在の美容院)を営んだ。しかし、しばらくすると夫婦の仲が悪くなり、お吉は酒におぼれるようになる。そして、5年後に離婚。お吉は三島で2年間芸者をした後、下田に戻り、小料理屋を開業した。だが、再び「唐人」と罵声を浴びせられ、結局は2年で廃業する。 世間から笑い物にされたお吉は、その後、仕事もせずに酒ばかり飲む生活を送った。身よりもなく、すべてを失ったお吉は1891年、50歳の時に淵(底が深く水がよどんでいるところ)に身を投げて命を絶った。お吉の悲しい物語は、今日でもさまざまな芝居で演じられ、観客の涙を誘う。 お吉がハリスのもとを去った後、日本はアメリカと対等な通商条約を結んだ。ハリスが帰国した直後、京都でお吉が坂本龍馬など維新の志士と一緒にいるところを目撃されている。日本は開港すべきというお吉の主張が、志士の間で語られていたという。 |
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