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| 日本の骨格を作ったプリンス 聖徳太子 日本の紙幣の肖像画として最も多く登場したのが聖徳太子(574〜622)だ。100円、1,000円、5,000円、10,000円に使用された。日本人によく親しまれている聖徳太子は、日本 初の女性天皇と なった推古天皇を代行する摂政に19歳でなる。聡明で、10 人の話をいっぺんに聞くことができたという伝説がある。 当時の日本の中心は奈良で、 太子は実力者、蘇我馬子と推古天皇と協力して、さまざまな改革に着手した。太子は、遅れていた日本を近代化するには、当時の先進国の隋(現在の中国)から学ぶ必要があると考えた。そして、600年に隋へ使節団を送った。だが、日本を未熟な国とみなした隋は使節団を無視した。太子はそれに奮起して、制度改革に乗り出す。 太子は、まず朝鮮半島の制度を参考に「冠位十二階」を定めた。これは氏や性にとらわれることなく能力ある人材を採用する画期的な制度である。12の階級を色分けし、冠の色で官僚の権限と責任を一目でわかるようにした。また、日本で初めての憲法「十七条の憲法」も制定した。さらに、仏教を教える法隆寺を建設するなど、近代化を進めた。 こうして準備を整えた607年、聖徳太子は隋と外交関係を築くために再び使節団を派遣した。当時の近隣諸国の支配者は隋に国王と認めてもらうことで、その国の地位を保っていた。いわば、属国的なこれらの国々は、隋にはへりくだった外交をしていた。 日本の使節団から手渡された聖徳太子の国書を読んだ隋の皇帝、煬帝は激怒した。その国書は「日出る国の天子より、日沈む国の天子に致す……」で始まっていた。煬帝が怒ったのは、日本を日の昇る国とし、超大国を日の沈む国としたばかりでなく、隋の皇帝にしか使わない「天子」を小国が対等に名乗っていたからだ。しかし、団長の小野妹子は、日本は近代化されているので中国と対等であるはずと強く訴えた。 当時 、隋は高句麗(朝鮮半島の北部)と対立していた。隋は高句麗の背後に位置する日本とは協力関係を築きたいに違いない、と太子は考えた。その読みは見事にあたり、隋は太子の申し出を受け入れ、対等な外交関係を結ぶことに合意した。 太子は積極的に仏教文化を 取り入れる一方で、日本古来の神道も容認し、共存させた。良いものは宗教でも何でも取り入れ、伝統的な日本文化も大切にする発想は、今日の日本文化の原点とも なっている。享年48歳。 |
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