日本をより理解するための傑作記事(ひらがなタイムズ誌面より)
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プラス思考で道を開いた「経営の神様」

松下 幸之助

1970年、大阪で万博が開かれた。日本を代表する企業、松下電器産業の松下館の前には長い行列ができていた。ある夏の日、その中に創業者で会長の松下幸之助(1894〜1989)がいることに気づいた松下の係員に、幸之助はこう言った。「ここまでくるのに2時間かかった。その間に日陰がない。これからは並んでいる人全員に紙の帽子を配りなさい」と。

帽子を配られたお客は大喜びした。また、「松下」の名が印刷された帽子は宣伝にもなった。幸之助の経営哲学を表す数々のエピソードや名言がある。ある新製品ができたとき、製造担当者にこう言った。「ええもんができたな。さあ、この製品が売れなくなるような新製品をすぐに作ってや」。また、こうも言った。「失敗したところでやめてしまうから、失敗になる」と。

幸之助は1918年に大阪で松下電器産業を創業した。ソケットの開発から始め、二股ソケット、電池式自転車用ランプなど、ヒット商品を数多く生み出した。松下の「ナショナル」と「パナソニック」ブランドは日本の隅々まで浸透し、やがて世界企業へと発展。幸之助への評価は製品作りのうまさもさることながら、むしろ経営哲学にあるといえよう。

日本人が最も尊敬する経営者
幸之助は身体が弱く、家が貧しかったため、小学校を中退し丁稚奉公に出なければならなかった。幸之助は言う。「私が商売で成功できたのは、身体が弱く、学歴がなかったから」と。また、「松下はどのような会社ですか?」と質問されたとき、「松下電器は人を作る会社です。あわせて家電を作っています」と答えた。

その幸之助は何度も経営危機に見舞われた。戦後の日本を統治していたGHQは財閥を戦争の元凶とみなして解体を進めていた。そして、松下を財閥家族に指定し、幸之助を公職から追放したのだ。幸之助はGHQに50回以上も足を運び、「松下は一代で築いたもの。財閥ではない」と訴え続けた。4年後、ついに指定解除に成功した。幸之助はこのように知恵と粘りで経営危機を切り抜けた。

幸之助は、1950年以降の日本の長者番付けで1位が10回。「経営の神様」と呼ばれ、日本人の「好きな事業家・尊敬する経営者ランキング」アンケートで1位にランクされる。著書の「道を開く」は、現在まで450万部以上が売れた。政財界の指導者を養成するために私財を投じて創設した松下政経塾は、30人を超える国会議員を輩出している。享年94歳。

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