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東京大空襲 ――未曾有の殺人記録を後世に伝える

東京大空襲・戦災資料センター

東京の東部、隅田川と荒川に挟まれ東京湾に面する江東区北砂地区。古くから工業地域として発展した下町だ。今は住宅やマンションが多く、一帯は静かに時が流れている。だがこの地域には第二次世界大戦中、東京大空襲で最も被害を受けた過去がある。

1945年、日本の戦局は悪化、武器製造・兵力ともに弱体化していた。いよいよ敗戦の色が濃厚となった3月10日未明、連合国アメリカ軍は、約300機にもおよぶ戦闘爆撃機B29で東京へ来襲した。そして、低空飛行で38発の焼夷弾を内蔵するM69集束焼夷弾を、東京の中でも人口密度の高い下町地区に多量にばら撒いた。

容赦ない爆撃に家々は燃え盛り、あたりは一面火の海となった。街は黒煙が立ち込める火炎地獄図となった。10万人の民間人が命を奪われ、被災者は100万人以上と推定されている。また、市街地の約6割が焼失し、区部の人口は半数以下に減少した。

被害の激しかったこの北砂の地域に、この戦争による惨禍の記録を後世に残す目的で建てられた「東京大空襲・戦災資料センター」がある。立ち上げたのは、東京大空襲の事実を伝え続けてきた作家で同センター館長である早乙女勝元さんたちだ。1932年に東京の向島に生まれた早乙女さんは、12歳の時東京大空襲を体験している。

「東西南北、視界に入るのは燃え盛る火、それだけでした」と早乙女さんは回想する。当時の日本の家屋はほとんどが木造で、そこへ、油脂でできた焼夷弾が落とされたのである。「煙で目が見えなくて右往左往ですよ。冷静になる暇はありません。無我夢中で隅田川まで走りました」。米軍は最大限の打撃を与えるため、風が強い日を選んだといわれている。

夜通し走り続けた早乙女さん家族は、翌朝6時、日の出を見ながら川へたどり着いた。「焼け残った防空頭巾や衣類などが川に浮き、ベルトのバックル、人間の脂肪や血糊がしみた橋の上の光景は、何よりも空襲の惨禍を生々しく語っていました。すべてが焼き尽くされた川の対岸に、鉄筋造りの松屋デパートだけがそびえ立っていたのは不気味な光景でした」。

2時間半で10万人の死者
戦後の厳しい時代に青春の夢を投影すべく、早乙女さんは作家となり空襲以外にも青春小説など旺盛に書いた。自身の経験をきっかけに、1970年「東京大空襲を記録する会」を発足、東京都の援助で空襲・戦災の文献や物品の収集を始めた。しかし都知事の交代により、記念館建設が凍結へ追い込まれてしまう。

「このまま終わらせるわけにはいかない」。早乙女さんらは、やむを得ず民間募金に頼らざるをえなくなった。しかし、4千人以上からの協力、寄付が集まり、2002年3月、「戦災資料センター」設立へとこぎつけた。センターでは、関連資料・物品以外にもM69集束焼夷弾の模型や東京大空襲に関する映像などが鑑賞できる。

早乙女さんの執筆した様々な書籍や、戦争関連の本などがそろった図書室もある。またセンターならではのサービスのひとつは、東京大空襲の体験者の方たちがボランティアで解説をしてくれることだ。当時のリアルな体験を元にした細やかな説明に、往時の光景が訪問者の脳裏に再現される。

「前日の夕方まで一緒に遊んでいた友達がみんな亡くなりました。ボタン5つ、ベルト1つ、がま口1つで一人の遺体と数えられたんですよ」と解説するのは空襲体験者、二瓶治代さんだ。「この体験は辛すぎて、自分の中でずっと封印していました」。それでも、自分が語り継いでいかなければという気概で、ボランティア活動を始めたという。センターは今では修学旅行生の見学コースとしての人気も高く、2007年の春には増築された。

原爆に比べ忘れられがちな東京大空襲。「たった2時間半で10万人の死者を出したのは人類史上初、未曾有の殺人です」。早乙女さんは二度と起こしてはいけない人類の悲劇を、センターを通しこれからも語り継いでいく。

※「東京大空襲を記録する会」で集めた資料で、早乙女さんは5巻からなる本を出版し、菊池寛賞を受賞している。

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