日本をより理解するための傑作記事(ひらがなタイムズ誌面より)
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義のためにのみ戦った戦国武将

上杉 謙信

群雄割拠する16世紀、日本では各地の有力武将が日本統一の野望をいだき、戦いが繰り広げられていた。そんな中、越後(現在の新潟県)の武将、上杉謙信(1530〜1578)は、戦上手で70回ほどの戦いでほとんど負けたことがなかった。しかし領土拡張など自らの野心のために戦ったことがなかった。謙信は信仰心が強く、戦を嫌った。その代わりに特産品の布地を作り、莫大な富を築いたのである。
謙信といえば、日本人は誰もが「川中島の戦い」を思い浮かべる。1553年領土拡大の野望を持つ甲斐(現在の山梨県)の武田信玄が越後の南に位置する、信濃北部(現在の長野県)を侵略した。謙信がその豪族から助けを請われたことから戦いが始まった。当時、日本最強といわれた武田軍と5度にわたり信濃の川中島で戦いを行ったが、決着はつかなかった。
この時代、謙信、信玄のほかにもう一人強烈な個性の武将がいた。尾張(現在の愛知県)の小さな大名だった織田信長だ。天才的戦略で、次から次へと領土を拡大した。しかし、当時秩序を維持するために戦い、武将から尊敬を集める謙信を信長は恐れていた。信長は謙信に貢物を贈り、謙信が支持する凋落寸前の室町幕府を守る約束をして謙信と同盟した。

敵に塩を送る
その後、天下統一を狙う信長と信玄は現在の静岡で対決する。しかし意外な結末が待っていた。信玄が決戦前に病で亡くなってしまったのである。信長は大量に所有する近代兵器の鉄砲で武田軍を撃破した後、密かに謙信の部下へ離反を促した。それを知った謙信は激怒し信長征伐に立ち上がった。両軍は手取川(石川県)近くで対決する。

鉄砲隊をそろえた信長軍に対し、謙信は鉄砲が使えない雨の夜に攻撃を仕掛け、大勝利を収めた。しかし、信長追撃準備中の1578年謙信は病で他界し、時代は信長へと傾いた。謙信にまつわる逸話は多い。領地に海がない宿敵信玄に不足していた塩を送った話は有名だ。「敵に塩を送る」はことわざとなり、「苦境にある敵を助ける」という意味で今日も使われる。

信玄は死ぬ前に息子の勝頼に遺言した――「自分の亡き後は謙信を頼れ。謙信は義理がたく、人に頼られれば決して見捨てる事はない」と。一方、食事中に信玄の死を伝え聞いた謙信は、「惜しい男を亡くした」と箸を落として号泣したという。また、「今こそ武田攻めの好機」と口走る家臣には、「大人げない」と言い、聞き入れなかった。享年48歳。

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