日本をより理解するための傑作記事(ひらがなタイムズ誌面より)
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熱き女性解放運動家

平塚 らいちょう

「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されてしまった我が太陽を今や取り戻さねばならぬ……」。1911年、女性たちによる文芸雑誌「青鞜」の創刊の辞で主宰者の平塚らいちょう(1886〜1971)は、高らかに女性解放を宣言した。このとき、らいちょう24歳。

「青鞜」の創刊号はたちまち売り切れ、同世代の女性に大きな衝撃を与えた。それは、女性の自我の目覚めに火をつけるとともに、封建的家族制度反対、婦人参政権の獲得などを主張する女性解放運動の原点となった。また、家父長制の下で男性に従属されていて、女性の恋愛がままならないこの時代に、自由恋愛も提唱した。

らいちょうは創刊の3年半前に夏目漱石を師と仰ぐ森田草平と恋愛の末、栃木県の塩原温泉で心中未遂事件を起こしている。東京帝国大学(現在の東京大学)と日本女子大学を卒業したエリート・カップルのスキャンダルに世間は大騒ぎとなった。らいちょうは自由恋愛を自ら実践していたといえよう。

同棲生活、未婚の母、そして……
1914年、27歳のらいちょうは5歳年下の画学生、奥村博史と恋に落ち、同棲生活にはいる。実質的な結婚であったが、意図的に婚姻手続きをふまなかった。そのことから「結婚制度への挑戦」として、世論の非難を浴びる。そして「青鞜」の女性グループ内には亀裂が生じた。そこで奥村は身を引いた。らいちょうは、未婚の母として2児を育てる。

しかし、二人の愛は変わらず、数年後正式に結婚した。自由奔放な生き方を実践したらいちょうだが、一方では「母は生命の源泉で国家的存在となる。自分の子どもでも、その社会の、その国家のものです」と主張。それは、子供は自分の子、外で働き経済力を持ってこそ、女性も母性も自立できると主張する女流歌人、与謝野晶子らの批判を招いた。

1920年には市川房枝らと日本最初の女性運動団体「新婦人協会」を結成、法律で禁じられていた女性の政治集会への参加を法改正請願運動で実現させた。1953年には日本婦人団体連合会の会長に就任。「新しい女は『昨日』に生きない……」と熱く語ったらいちょうは、日本女性の地位向上に多大な功績を残した。本名、奥村明。享年85歳。

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