日本をより理解するための傑作記事(ひらがなタイムズ誌面より)
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世相が作り出したスーパー・アイドル・ホース

ハイセイコー

1973年3月4日中山競馬場は異常な熱気に包まれていた。大観衆の目は一頭の馬――ハイセイコーに注がれる。地方競馬(大井)で6戦6勝、それも常に7馬身以上で勝った。ハイセイコーが、この日中山競馬場にデビューするためその勇姿を見に、13万もの人が押しかけたのだ。そして期待通りに勝った。その後も三冠の一つ、皐月賞も含めて3連勝した。

10連勝したハイセイコーは「怪物」と呼ばれ、その人気は最高潮に達した。その人気の裏には、血統が重視されるサラブレッドのなかで、父親が名門の出ではなかったこと、あまり注目されない地方競馬の出身という二つの要素があった。つまり、地方から這い上がり、エリートが居並ぶ中央の社会で出世していくという、庶民の願望の物語でもあったのだ。

時の田中角栄総理大臣は、新潟の田舎育ちで、小学校しか卒業していない。角栄は並み居る東京のエリートを抑えて、総理大臣にまで上り詰めた。日本は高度成長期を享受し、家柄に関係なく実力あるものが出世できる情況が到来しつつあった。ハイセイコーはまさに時代が求めていたスーパーホースだったのである。

「怪物神話」から「アイドル神話」へ
11戦目の日本ダービーでは史上最高の66.7%の人気を集めた。ハイセイコーが勝っても元金が戻るだけという異常な事態だった。結果は、4コーナーで好位置につけていたハイセイコーは先頭に立ったが直線で2頭に抜かれて3着。会場は一瞬静まり返った。怪物神話が崩れた瞬間だった。勝ったのは、後にハイセイコーのライバルとなる伏兵タケホープ。

雪辱を期して挑んだ三冠最後の菊花賞では、ハイセイコーは4コーナーを回り直線で抜け出し2位以下をどんどん引き離した。誰もが、ハイセイコーの勝利を信じた。だが、ゴール少し手前で、タケホープが矢のように飛んできて、二頭は並んでゴールイン。写真判定となったが、ハイセイコーはまたしても敗れた。

競馬ファンは、それでもハイセイコーへの声援を送り続けた。それは近親への愛情に近い感情だった。最後のレースとなった、日本一を決める有馬記念では宿敵タケホープに先着したが、惜しくも二位に終わった。引退時にハイセイコーの騎手だった増沢末夫騎手が歌ったレコード「さらばハイセイコー」は50万枚の大ヒットとなり、「アイドルホース」1号としてその名を永遠に残すこととなった。

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