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| 静かなブームを迎えた新形式の日本の詩「五行歌」 過去1,400年間日本の詩は短歌と俳句の二種類に占められてきた。しかしながら、前世紀の後半から五行歌(五行の言葉の詩)が静かな人気を集めている。その創始者は詩人の草壁焔太(ペンネーム)さんで、1957年、彼が丁度19歳のときにこの形式をつくりあげた。 まだ小学生のときに詩人になると決意していた草壁さんは、若いときには短歌に情熱を注いでいた。だが、硬直した5、7、5、7、7の構成に次第に不満を抱きはじめた。短歌の画一的な構成によって表現が限られ、ほとんどの歌が沈んだ調子になりがちだと感じていた。人の生のあらゆる局面をもっと直接的に、素直に表現できる形式を彼は望んでいたのだ。 五行の形式を保ち短歌の音節パターンを取り除いた、もっと自由な新しい詩の形式を草壁さんは考案した。彼は日常生活の機微を表現するには、そのほうがもっと適していると感じていたからだ。自然や季節の変化など日本の短詩の伝統的なテーマによる作品もあるが、五行歌は作者の感情や思いを率直に、飾ることなく正直に表している。しばしば日常語で書かれ、会話で現れる擬態語・擬音語もよく使われる。 草壁さんによると、この事が五行歌運動の成功の鍵になったという。詩、特に短歌を書く習慣は、西洋よりも日本のほうがはるかに行き渡っているが、五行歌が特に近づきやすいというのも、正式な訓練や高尚な文化に対する深い教養を必要としないからであろう。草壁さんが知る最高の作品の中には、文学を専門としない人のものもある。こうして彼は、誰の心にも名作があると思うに至った。五行歌はそれらを引き出すのに有効的な方法といえよう。 次の大きな目標は、五行歌を世界的な文学運動に 草壁さんが最初に五行歌を書いてから30年後、東京に五行歌の会を作った熱心な人達がいた。それ以来この運動が弾みをつけ、12年間で全国に150の支部ができた。1984年草壁さんは飯田橋に「市井社」という文学出版社を設立した。そこで彼は月刊の五行歌雑誌を出版し始めた。それ以来、全国各地の五行歌会からいくつもの独自の定期刊行誌が出版されるようになった。 今では読売新聞の地方版では毎週五行歌を掲載し、各地の学校も五行歌大会を始めている。草壁さんによると、月例五行歌集会に参加する人は、全国で4,000人ぐらいいるという。しかし、新聞や雑誌の公募への反応を考慮すると、日本で50万近い数の人が五行歌を書いているとみられる。日本には短歌をする人が100万人いるといわれていることから、これは決して小さな数ではない。 草壁さんの成功は、この仕事に一生を捧げるたゆまぬ情熱によるところが大きい。彼の次の大きな目標は、五行歌を世界的な文学運動にしていくことにある。「すべての言語にはそれぞれ本来の味があり、言葉は呼吸と同じだ」と、草壁さんはウェブサイトの五行歌の簡単な紹介で述べている。それに気づいたのは、シェイクスピアが書いた詩をあれこれ考えているときだった。大切な文章やよく知られている詩の言い回しが、自然に五行歌の形式になっていることに気づいたのだ。 同じころに日本語の先生で市井社のパート社員でもある佐々木龍さんは、職場である国際語学学校に五行歌クラブを作った。彼は熱狂的な反応にうれしい悲鳴をあげた。草壁さんはこの形式の詩を世界中に広めることができると確信するにいたった。東京にいる翻訳者の助けを借りて、五行歌の英語の紹介本を出版し、ニューヨーク行きの飛行機に予約を入れた。2007年にはロンドンへも行く予定になっている。 五行歌の詩 その人を思うと 胎動が 五行歌のサイト |
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