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| 300年後の今も語り継がれる仇討ち物語のリーダー 大石内蔵助 毎年、12月になると必ずと言ってよいほど、「忠臣蔵」というドラマが映画やテレビで放映される。これは、命をかけて主君の仇を討った47人の侍の物語だが、300年のときを超えた今も日本人の心をとらえて離さない。忠義のためには命を捨てるという武士道の精神は、10数年前まで企業戦士という形でみられた。 事件は、1701年に江戸城内で起きた。赤穂(現在の兵庫県)の藩主・浅野内匠頭が江戸城の廊下で、吉良上野介を突然斬りつけた。浅野は天皇の使者の接待役で、吉良は、その作法の指南役だった。浅野は吉良から度重なる侮辱を受け、それが原因で事件に至ったのだ。浅野は幕府より即日切腹を命じられ、赤穂藩は断絶となった。一方の吉良は、何の罪にも問われなかった。 この時代、喧嘩両成敗という武家の定めがあり、幕府の裁定に赤穂藩士は強い不満を持った。筆頭家老の大石内蔵助(1659〜1703)の元で会議が開かれた。城にこもり幕府と戦うという意見、主君に殉じて腹を切ろうという意見などがあり、激論は続いた。悩んだすえ、内蔵助は、浅野家再興のために幕府の命令に従い城をあけ渡すという道を選んだ。 将軍も感動した赤穂浪士の忠義 チャンスは一度、失敗は許されない。江戸に入った内蔵助は入念な準備を進めていった。そして、1702年12月14日かの深夜、大石内蔵助を先頭に47人の浪士たちは吉良邸に討ち入り、吉良の首を取り主君の仇をとった。それを知った市民は大喝采した。将軍、徳川綱吉も彼らの忠義に感動したが、武士制度を維持するため、彼らに切腹を命じた。 切腹は武士道では名誉ある死である。46名(一人は討ち入り前後に離脱)は主君と同じ東京・品川の泉岳寺に埋葬された。大石内蔵助の墓には今も線香が絶えることがない。忠臣蔵の「忠臣」は、主君に忠義を尽くす家来、「蔵」は、内蔵助の蔵の意味だ。劇名は、「赤穂浪士」(職を失った赤穂の侍)と付けられることもある。忠臣蔵は、日本人の魂を揺さぶる物語だ。 |
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