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日本の近代化に奔走した型破りの偉人

坂本 龍馬

日本人に最も人気のある二人の日本の偉人、中世の革命家、織田信長(1534〜1582)と明治維新の立役者、坂本龍馬(1835〜1867)は、異なる方法で日本統一を目指した。信長は日本各地の領主を知恵と武力で打ち破り、古い体制を破壊して――。一方の龍馬は、信長の約300年後、外国からの侵略圧力の中で天皇派と将軍派の権力争いの共存を模索して――。

坂本龍馬が活躍した19世紀後半は、ヨーロッパの列強によるアジアの植民地化が進んでいた。日本は徳川幕府が実権を握っていたが、そこに、250年の鎖国政策を破り、アメリカから通商条約をせまる使節団が突然東京湾沖に現れた。日本人は使節団の大砲を積んだ巨大な黒船に驚いた。幕府は鎖国を続けるか、開港するかで大混乱に落ち入った。

日本国内では幕府を倒し、外国勢力を排除した天皇による政治を目指す勢力が台頭していた。土佐(現在の高知県)で生まれた龍馬もその一人だった。江戸(現在の東京)に出て剣道の修行をして達人となった。後に、江戸幕府の高官である勝海舟の考えに共鳴し、弟子となる。海舟は「幕府とか、藩だとかではなく、日本をどうするかだ」と主張した。

将軍から天皇への政権移譲を提案
龍馬は海軍と商社の要素を併せ持つ「海援隊」を組織し、それを利用して行動を開始した。その頃、幕府は抵抗勢力の長州藩(現在の山口県)と対立していた。龍馬は幕府に対抗するには強力な薩摩藩(現在の鹿児島県)の援護が必要だと考えた。そして、犬猿の仲だった二つの藩を同盟させることに成功。これにより反幕府勢力は勢いづいた。

この時代、多くの若い優秀な人材が新しい国造りを目指した。彼らが徳川幕府を徹底的に倒そうとしたのに対して、龍馬は新しく発足する議会の一議員として徳川家も存続させ、争いを避けるべきだと考えた。そして、将軍が政権を自主的に天皇に還すという大胆な提案書を作った。

徳川慶喜将軍はその案を受入れ、徳川幕府は自ら終わりを告げた。龍馬は明治維新最大の立役者であるにもかかわらず、新政権に加わる野心はなかった。純粋に理想の国造りに奔走しただけだった。だが、日本統一を目前にして殺された信長と同様に、近代国家が誕生する前年に暗殺された。享年33歳。剣の達人は、生涯人を殺したことはなかった。

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