| 日本をもっと知る - 歴史 |
| 圧政に苦しむ農民のために立ち上がった義勇の士 井上 伝蔵
世界には権力者の圧政に苦しむ民衆がいまだに多い。それらの中に圧政に立ち向かった日本人がいる。一人は中世に島原の乱(九州)を起こした、天草四郎。悲劇の美少年として日本人にはよく知られている。その他、近代では秩父事件を引き起こした井上伝蔵(1854〜1918)らがいる。しかし、伝蔵を知る日本人は少ない。事件の背景は現代にも通じるものがある。 2004年に伝蔵を主人公にした映画「草の乱」(神山征二郎監督)が上映された。秩父事件120周年記念としてつくられたものだ。「120年前の日本に凄いやつらがいた!」がキャッチコピーだった。1918年、北海道で死を間近にした老人が、家族に自分の本名が井上伝蔵、秩父事件で死刑の判決を受けた首謀者の一人であったことを明かした。 埼玉県の秩父地方は山岳地帯で、養蚕によって農民は生計を立てていた。養蚕農家は毎年生糸の売上金をあてにしてお金を借り、食料を購入していた。しかし、政府のデフレ政策により生糸価格が暴落、また増税により、さらに高利貸からの借金に頼らねばならない状態にあった。不当な高利で破産し、先祖伝来の土地を取り上げられる農民が続出していた。 借金の据え置き、減税を願い出る 1884年11月1日、田代栄助を首領として、井上伝蔵ら3,000余名の民衆有志が秩父の神社境内に集まった。困民軍は軍律を定め、一般の住民に危害を加えることを厳しく戒めた。しかし末端では、暴徒化して高利貸しの家を打ち壊したり、放火したりした。一時は役所を占拠し、憲兵隊を撃退したが、数で劣る困民軍はその後の戦いで敗れた。 蜂起参加者は1万人ともいわれている。事件後、有罪判決を受けた者は4,000人にのぼり、首謀者とされた7名には死刑判決が下された。北海道に逃走した伝蔵もその一人だった。時の政府は彼らの闘いを歴史から抹殺してきた。しかし、30年間身を隠していた伝蔵の遺言から、彼らが暴徒ではなく、弱者を救う義勇の士だったことが証明されることになった。 |

