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| 夫の出世を支えた戦国時代の良妻賢母 山内一豊の妻 千代 山内一豊(1545年〜 1605年)は、自分と同じように主家の没落で、幼くして流浪生活を味わった千代(1557年〜 1617年)と結婚した。いつの日か一豊が一国の城主になることを、貧しい二人は夢見た。勇敢な一豊は、中世の革命家といわれる織田信長の家来、木下藤吉郎(後の天下人、豊臣秀吉)に仕えた。 一豊は各地の戦いに出陣して手柄を立て、領地も次第に増え、家臣の数も多くなっていった。その成功を支えていたのは明るく賢い千代の存在だった。二人は愛し合っていたが、子供には恵まれなかった。千代もそのことばかりが気がかりだったが、結婚9年後、ようやく女の子が生まれた。二人は「よね」と名づけ、これ以上ない愛情を注いだ。 ほぼ天下を手中にした織田信長の城下町、安土で開かれた馬市にこれまで見たことがない程の名馬が登場したが、10両(現在に換算すると数百万円)という値段に織田だ家の武士たちは誰も手が出せなかった。この話を聞いた千代は、母から「夫の大事の時に使うように」とさずかった10両を一豊に差し出し、その馬を買わせた。この話は、たちまち織田家の中で大きな話題になった。噂を聞いた信長は、「織田の家中であの馬を買い取れる者がいなかったら、天下に織田家の恥をさらすところであった」と、一豊の功績を認め恩賞を与えた。 1582年、織田信長が部下の謀反で亡くなり、天下は秀吉に移った。一豊は相変わらず各地で戦いに明け暮れていたが、やがて長浜城主に出世した。ところがこの年、長浜地方を大地震が襲い、可愛い盛りの6 歳のよねが、壊れた建物の下敷きになって、死んでしまったのである。一豊と千代の悲しみは、はかりしれなかった。その後、千代に子供ができることはなかった。家を継ぐのは子供で、武将は正妻のほか側女を置くことは当時としては普通だったが、生真面目な一豊は、周りのすすめがあっても、生涯千代ただ一人を愛した。 1598 年、信長の後を継ぎ、天下を統一した秀吉が大阪城で死去した後、実権を握ったのは徳川家康だった。秀吉の後を継ぐべく子供、秀頼の子守役として大阪に滞在していたが、1600 年、家康と対立していた会津(福島県)の上杉氏を討つという名目で関東に出陣した。一豊は東海道を江戸(現在の東京)に向かう途中の家康隊に食糧を提供し、家康を接待した。秀吉の次に天下を取るのは家康であると見抜いた千代が、そうすることを一豊にすすめたのだ。 家康が江戸に向かうと、豊臣家の家臣、石田三成は大阪城に入り、秀頼の名で家康を討つと宣言した。家康と共に関東へ向かった諸将を豊臣側につけるため、彼らの妻子を人質にとる作戦を立て、大阪城に呼び寄せた。千代は、それを知らせる三成方からの手紙を受け取ると、一豊宛の手紙を書き、三成方からの手紙と共に密使に持たせて、一豊のもとへ走らせた。千代の手紙には、「私のことは心配しないでください。いざというときには自害して、敵の手にはかかりません」と書かれていた。 手紙を受け取った一豊は、千代の指示どおり、それを家康に差し出した。さらに軍議の席では、徹底して徳川に味方をする態度を示した。これが、人質を取られた諸将が徳川方になびく呼水となった。徳川方は関ヶ原の決戦に大勝利し、千代が予見したように徳川の時代が始まった。その後の論功行賞で、家康は「一豊の功績は諸将の中で随一である」とほめたたえて、一豊に土佐一国(高知県)を与えた。結婚30年後、二人の夢はついに実現したのである。 |
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