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| 勤勉な日本人の手本となった少年 二宮 金次郎 外国人に日本人の特徴を尋ねると、多くが「勤勉」と答える。日本人は確かに勤勉だ。その象徴というべき人物は、後に二宮尊徳と呼ばれる、二宮金次郎だ。かつて、日本の紙幣にもなり、小学校の唱歌にもなった。また、まきを背負いながら、本を読む金次郎の銅像は日本のどの小学校でも、建てられていた。 二宮金次郎は江戸時代の末期、1787年に相模の国(現在の神奈川県小田原市)の農民の子として生まれたが、少年時代に両親が亡くなり、おじに引き取られた。おじの家には蔵書があり、ここで学問に精を出すようになった。金次郎は朝から晩まで真面目に働いていたが、本を読む時間があったらその分働けと、家では勉強させてもらえなかった。そこで銅像にあるように、まきを背負って道中に本を読んで勉強した。 金次郎は夜も本を読んだが、その灯火のために、空いていた荒地に菜種をまいて栽培した。金次郎は商才にも長けていた。まきや米等を地元で売らず、多くの利益を得ることができる小田原の城下まで運んで販売した。金次郎の向学心は別の収入をもたらした。学問に熱心な武士の家で家庭教師の出稼ぎもしたのである。 身長182センチ、体重94キロ、当時の日本人としてはかなりの大男だった。金次郎は22歳の頃、荒地の開墾を自ら行い、開墾後はこれを小作に貸した。小作料や現金収入には税金がかからなかったからだ。自らは耕さず小作料を取り地道な経営手法で蓄財を重ねていったのだ。その一方で、貧民に対して施しもしていた。 国策に利用された金次郎 ここでも、金次郎は「収入を超えた支出をすると破綻する」と説いた。しかし、小役人の不正が横行し、既得権も多く存在していた。金次郎は自ら荒地の開墾を指揮し、農民とかわらぬ衣食をして質素倹約を実践した。やがて、少しずつ同調者が現れるようになり、改革に成功した。その後、金次郎は600ほどの農村の復興に尽くした。 1937年は金次郎生誕150年に当たることから、小学校に銅像が建てられるようになった。この背景には、金次郎の倹約・勤勉の精神を戦争に利用したい、大日本帝国主義をとっていた当時の日本政府の意図があった。だが、皮肉にも、戦局悪化・軍需物資不足に伴い、金次郎の銅像も鉄砲や大砲の弾等に使用された。その結果、多くが銅像から石像に造りかえられた。そして、軍国主義の象徴でもあった金次郎像は戦後に打ち壊しの憂き目にもあった。しかし、金次郎本来の業績は永遠に消えることがない。 |
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