| 日本をもっと知る - 歴史 | |
| 一切の弁護もせずに死刑を受け入れた悲劇のA級戦犯 広田 弘毅 2005年は戦後60年で、小泉総理大臣の靖国神社参拝が大きな話題となっているが、中国や韓国が総理の参拝に反対するのは、ここに一般兵士と共にA級戦犯14名も祀られているからだ。東京裁判でA級戦犯として判決を受けたものは25名。そのうち7名が死刑の判決を受けた。その中に軍人ではなく、文官が一人いる。その名は広田弘毅。元総理大臣であり、外務大臣でもあった。広田の死刑判決に対して、助命嘆願の署名活動が行われた。GHQが絶対的権限を持っていた当時においてである。平和のために努力していたと思われた広田の死刑は、多くの日本人に意外に映ったのだ。 広田は1905年東京帝国大学を卒業後、外交官となった。同期には、戦後宰相となった吉田茂らがいる。そうした同期の中でも、いち早く第二次大戦前に外相、首相という頂点にまで上り詰めた。 日本は日露戦争(1904〜5)後、軍事大国の道を歩み始めた。軍隊は天皇の統帥権の名の下にあり、内閣の権限も及ばない独立した存在として活動するようになっていた。陸軍は、陸軍省と軍参謀との間で権力が二分され、権限の所在がはっきりしていなかった。それが、満州において関東軍(満州駐屯の日本軍)の暴走を招き、日中戦争(1937)へ突き進む要因となった。 外交官としての広田のモットーは、軍事力に頼らず、外交交渉によって事態の解決をはかることだった。東支鉄道買収についてのロシアとの交渉でも、外交努力により解決した。広田は軍部の失態を外交官として担い、戦争を回避しようと努力していた。しかし、天皇自身も危惧を抱いていた関東軍の暴走を止められなかった。関東軍は、強引に満州帝国を建国したが、その行為は世界の多くの国から非難され、日本は国際連盟から脱退するという事態に陥ったのである。 外相就任中に南京大虐殺が勃発 広田は首相を退陣したが、当時、内閣の組閣は陸軍の干渉によってうまくいかないことが多く、広田は外相として復帰することとなった。広田にとって不幸だったのは、この2度目の外相就任中に日中戦争が始まり、軍隊の暴走で、あの南京大虐殺が起きたことである。広田は外相として陸軍大臣に抗議するなど、できる限りのことをした。しかし、これらの作戦は閣議において決定されるべきものではなく、それ以上のことはできなかった。 東京裁判では、国策の基準を決定したことなどが、戦争を煽った根拠として取り上げられた。広田が軍部の暴走を抑えるために妥協せざるをえなかったのだが、東京裁判において、広田は一切の弁論を行わなかった。結果的に自分が首相、外相の時に戦争を防げなかったことに対する責任を痛感していたからだ。しかし、広田はアジアを蔑視し、中国人の抵抗意識や被害者感情に理解がなかった。広田がいう国際協調は、日本の対中侵略に対する欧米への緩和政策の産物だったと指摘する声もある。 一方では、広田は天皇が責任追及されるのをかばい、自らが身代わりとなったという見方もある。当時の日本人は一切の弁解をしないで、いさぎよく責任を取ることを美徳としてきた。広田の生き方は日本人の魂を揺さぶった。広田は愛妻家としても知られるが、その夫人は広田が刑を執行される前に自害した。自分が生き残っていることに広田が憂いをもつことを気遣っての行為だったといわれている。 30年ほど前に、広田弘毅を主人公にした城山三郎著の「落日燃ゆ」(86年、新潮文庫に)がベストセラーになり、広田弘毅の悲劇に多くの日本人が同情を寄せた。 |
|

