日本をより理解するための傑作記事(ひらがなタイムズ誌面より)
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時代に翻弄された若者の最後の叫び

神風特攻隊

2005年は終戦から丁度60年の年だ。戦争にまつわる物語はたくさんあるが、今でも涙をさそうのは、4,600余人の「神風特攻隊」の悲劇だ。

1944年10月、アメリカ軍がフィリピンに上陸したが、日本軍はすでに戦うための物資が底をつき、敗戦は迫りつつあった。そこで、考え出されたのが、人間爆弾だった。飛行機に爆弾を積み、敵の母艦に体当たりするというものだ。その部隊が「神風特攻隊」である。現在、世界で頻繁に行われている自爆テロの原型といえるものだ。

この任務を担ったのが20歳前後の若者だ。彼らは何を思いながら命令に従い、死への飛行を受け入れたのか。「神風特攻隊」は鹿児島県の知覧から飛び立ったが、その空港跡地に「知覧平和会館」が建てられている。1,036名の特攻兵の遺影、遺品のほか、彼らが書き残した遺書、手紙、日記などが展示されている。それらは、飛び立てば、二度と戻ってくることはできない片道飛行の直前に書かれたものだ。下記はそのいくつかである。


遺書:母を慕いて
母上お元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下さりし母
継母とは言え世の此の種の女にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母

俺は幸福だった
遂に最後まで「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ寂しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと

1945年5月4日出撃 戦死 18歳 相花信夫


遺書:母宛 1945年4月11日
お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。「親思う 心にまさる親心 今日のおとずれ なんときくらん」この歌がしみじみと思われます。本当に私は幸福だったのです。わがままばかり通しましたね。けれど、あれも私の甘え心だと思って許してくださいね。

晴れて特攻隊と選ばれて、出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。母チャンが私をたのみと必死で育ててくれたことを思うと、何も喜ばせることが出来ずに、安心されることもできずに死んでいくのがつらいです。…

この手紙は、出撃を明日にひかえて書いています。ひょっとすると、博多の上を通るかもしれないので、楽しみにしています。陰ながら、お別れしようと思って。…いつでもまた、お母さんに会える気がするのです。会えないなんて考えると、ほんとうに悲しいですから。

1945年4月12日沖縄にて戦死。23歳 林 市造


時代に翻弄され、不条理のうちに若き命を祖国にささげなければならなかった特攻隊員。その多くが、敵の高射砲で討たれ、任務を果たせないまま墜落死した。彼らの英霊は靖国神社に祀られている。この知覧の地を訪れた小泉総理大臣は、祖国を守るために犠牲となり散っていった彼らに感動し、彼らの霊を慰めるために靖国神社を参拝するようになった。

日本の軍部を信じて祖国のために犠牲となった「神風特攻隊」は、軍国主義の愚かさを戒める礎となってこれからも生き続けていくことだろう。

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