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| 弱者を救う「新宿歌舞伎町・駆けこみ寺」創設者の壮絶人生 玄 秀盛さん 日本一の歓楽街、新宿歌舞伎町にあるNPO法人日本ソーシャル・マイノリティ協会本部・新宿救護センターの明かりが消えることはない。通称「駆けこみ寺*」だ。暴力亭主や借金でやくざに追われている人たちなどをかくまい、あるいは家出、ひきこもりなど、さまざまな社会的弱者から相談を受け、迅速に救護する。 このセンターの所長、玄秀盛さんは、現代日本社会の断面を関西弁で語る。「ここにくる相談者はみな怯え、苦しみもがいてやってくる。最近、特に多いのが家庭内暴力。ほとんどが中流以上の家庭で起きてる。子供が親に殴るけるの乱暴を働く。そやけど誰も止められへん。家庭の問題とみなされるさかい、親が暴力で訴えない限り警察も介入できへん。それをいいことに、子供は暴れまくる。子供といっても、20代、30代の立派な大人や。家でゲームをしてごろごろしている寄生虫やが、世間体を考えて親は何もできないでいる」。 これらの相談者に、玄さんは勇気を持って問題解決に立ち向かえとアドバイスする。「俺はいっぺんしか助けへん。やるか、やらないかは本人しだい。俺の仕事は相談者に決意をうながすことや」。玄さんは、場合によっては被害者をかくまい、加害者と対決する。その中には暴力亭主からやくざまでいるが、玄さんは彼らの圧力に、全くひるむことがない。「彼らは、本来、弱い人間なんや。だからより弱いものへと矛先が向かう。どんな相手でも、俺は捨て身やから何も怖いものがない。全く利害関係のない第三者の俺がなぜ身体を張ってかばうのか、彼らはいぶかしがる」。 4人の父と、4人の母の間をたらい回しにされた子供時代 玄さんは関西に住み、成人してからはさまざまな職を点々とした。そして建築関係の仕事で成功すると、事業を次々と拡大していった。事業といっても人をだますような、汚い手口で儲けたという。そこで、ヤクザとの抗争も絶えなかったが、幼いときから鍛えられてきた玄さんは負けることがなかった。大儲けをし、成功者の集まりであるロータリークラブの会員にもなった。だが、少年時代の生い立ちから、玄さんは誰も信用せず、お金儲けがすべてだった。玄さんにうさん臭さは常にただよい、うらみを持つ者も少なくなく、命を狙われたこともあった。 結婚をして三人の子供もできたが、玄さんは神戸に住む家族を放ったらかしのままで、毎日のように飲み歩く、好き勝手な人生を送っていた。そんなさなか、好奇心旺盛な玄さんは、興味本位から「生き仏」と呼ばれる酒井大阿閣梨に会い、在家僧侶にもなった。時々、お寺へ修行に出かけたが、終わればその足で、お金の取立てに向かうという具合だ。巡礼などの修業にも出たが、結局、そこから得たものは中途半端な仏心で、薄っぺらな偽善者の顔だった。 一大転機をもたらした病名 玄さんは、どうせすぐに死ぬのならやり残したことをやり遂げてから死のうと思った。それで思い浮かべたのは、家族のことでも会社のことでもなかった。復讐だった。どうしても許せない男が5人いた。彼らを殺す計画を立てた。殺せば当然警察につかまる。そして、死刑となるだろう。それでもよかった。明日も知れぬ命なのだから。 それから数日後。何気なく、日本赤十字病院から届いた手紙を読み直した。よく見ると「HIV」ではなく、「HTLV-1」ということに気づいた。インターネットで調べてみると、急性白血病を発祥する可能性を持つ、希少なウイルスの一つだということがわかった。HTLV-1保菌者のうち、千人に一人が発祥し、発祥すれば一年以内に死亡する。感染ルートとして多いのは授乳期による母子感染。約40年の潜伏期間を得てウイルスが出現する。二次感染はほとんど認められないとあった。玄さんは胸をなでおろしたが、恐怖心が消えたわけではなかった。この治療法がまだ見つかっていないのだ。 今まで何度も修羅場をくぐってきた玄さんだが、こんなにも死を意識したのは初めてだった。親らしいことを何もせず、こんなウイルスを残していった母親をのろった。それが終わると、自分自身の過去を振り返った。金に執着し、金のために働いてきたが、そこで得たものは何もなかったことに気づいた。そして、死に直面したときにも、家族のことより復讐を考えた自分が情けなく思えた。 俺だから逃げ道を教えてあげられる しかし、玄さんを知る人は「玄はまた何かをたくらんでいる」ととらえ、開設の資金集めは困難を極めた。事務所の家賃やスタッフの給料など毎月の費用は何もしなくとも必要だ。人に任せていた会社はすでに倒産し、個人保証していた玄さんに借金だけが残った。その額1億8千万円。それに加え、救護センターの経費は毎月かさみ、資金繰りに窮する日々が続いた。 それでも、救護センターには救いを求める電話相談や面談は、半年間で2,469件にのぼった。ボランティア・スタッフの手助けもあり、多くの人を救った。救援活動は順調に拡大していくかに見えた。しかし、資金難から玄さんに共鳴して集まったスタッフも一人二人と去らざるをえなかった。そして、玄さん一人になってしまった。自らは自己破産をした。それでも玄さんはへこたれない。夜は料理屋でアルバイトをしながら生活をしのぎ、その間も携帯電話で相談に応じた。 最近、うれしいニュースもあった。玄さんは長いこと家族を置き去りにしてきたが、玄さん自らの体験を書き綴った本「新宿歌舞伎町駆けこみ寺」(角川春樹事務所)を読んだ子供たちが、玄さんに会いに上京してきたのだ。そこには、生い立ちから、今日まで、自らのずるさ、身勝手さなど人間の業がありのままに記されている。その正直さに誰もが、共感を持たずにはいられない。すっかり成長した子供たちは、父親の過去を知り、少しずつ玄さんのことを理解し始めたのである。 救護センターには、今も相談はひっきりなしにやってくる。3年間で相談は6,000件にのぼる。ボランティア・スタッフもまた集まってきて、再び活気を取り戻しつつある。「これは俺の天職。この仕事をするために生まれてきたのやと思う。過去の経験はこれをするためにすべてが必要やった。それらをありがたく思っている」。銭儲けではなく、人儲け(「儲」とは信じる者と書く、つまり、人を信じること)、これが玄さんの哲学だ。玄さんの現在の顔は、仏のように慈愛に満ちあふれている。
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