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命令に背き、命のビザを発給し続けた外交官

杉原 千畝

60年前の1945年、日本と同盟を結んでいたドイツは5月に、日本は8月に無条件降伏して、第二次世界大戦は終了した。この悲惨な戦争は1939年にヒトラー率いるドイツがポーランドに侵入したことから始まったが、このときリトアニアでナチスに迫害されたユダヤ人に命のビザを発給した一人の日本人外交官がいた。その名は杉原千畝。日本のシンドラーと呼ばれる。オスカー・シンドラーについては、スピルバーグ監督により「シンドラーのリスト」(アカデミー賞受賞)で映画化されているので、ご存知の人も多いだろう。

ナチス占領下のポーランドから多くのユダヤ人が、スイスと同じように中立国と思われていたリトアニアへ逃亡した。しかし、1940年7月15日、そのリトアニアに新ソ連政権が誕生し、ソ連に併合されることは時間の問題となった。ソ連邦下になれば、ユダヤ人たちは国外に出る自由を奪われてしまう。彼らは、ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければならなかった。すでにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの手に落ち、在リトアニアの各国領事館・大使館はソ連の併合に備えて撤退を始めていた。

もはや一刻を争う状態だった。しかし、ユダヤ人の逃亡手段は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路しか残されていなかった。ユダヤ難民は業務を続けていた日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。当時、日本政府はユダヤ人に対して中立的な政策を表向きには取っていたが、ドイツとの同盟関係にあり、許可資格を異常に高く設定し、事実上締め出す意図を持っていた。

1940年7月18日の午前6時、ビザを求めるユダヤ人約200人が日本領事館の前を埋めつくしていた。ユダヤ人難民のほとんどはビザ取得資格を欠いていたため、千畝は本国外務省にお伺いをたてた。しかし、発給は許可されなかった。彼は再三依頼したが結果は同じだった。千畝は一晩中考えぬいた末、外務省の意向に背き自らの判断で、日本通過ビザを要件の整わない絶望的なユダヤ人たちに発給することを決断した。それは千畝にとっても命にかかわる決断だった。そして千畝は押し寄せるユダヤ人に来る日も来る日もビザを書き続けた。

もうこれ以上、書くことはできません…
同年8月3日にリトアニアは、ソ連に併合された。その前日、千畝には外務省より領事館退去命令が出たが、千畝は命令を無視してビザを書き続けた。その後日本およびソ連政府からも再三の領事館退去命令が出たが従わなかった。8月26日、日本領事館はついに閉鎖された。しかし、千畝はこれ以降も異動先のホテルでビザの代わりとなる渡航証明書を発給し続けた。

9月5日千畝家族がベルリンへ向かうため駅へ行くと、そこには最後の救いを求めるたくさんのユダヤ人がホームに集まっていた。千畝は列車が発車するまで渡航証明書を発給し続けた。そして、ビザを発行できなかった人に対して、こう言って頭を下げた。「許してください、みなさん。私には、もうこれ以上、書くことはできません…。みなさんのご無事を祈っています」。

現在、外務省保管の「杉原リスト」には2,139人の名前が記されている。その家族や公式記録から漏れている人を合わせると、千畝が助けたユダヤ人は6,000人から8,000人といわれている。ちなみに、シンドラーが救ったユダヤ人の数は300人であるから、いかに多くの人を助けたかお分かりいただけるだろう。

リトアニアがソ連に併合された後、千畝はドイツ、チェコスロバキア、東プロイセン、ルーマニア領事館に赴任。第二次大戦終結後、ブカレストで収容所生活を送ったが、1947年に帰国した。だが、外務省を退職させられた。命令に従わなかったことが理由に違いなかった。

1985年イスラエル政府よりユダヤ人の命を救出した功績で、「ヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)」を受賞。ビザのことが報道されるようになっても、千畝は人ごとのように淡々と言った。「新聞やテレビで、さわがれるようなことじゃないよ。私は、ただ、当然のことをしただけだから」。

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