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| 天下統一を目指した、異端の合理主義者 織田 信長 愛知県は、日本史でもっとも有名な3武将を生んだ県としても知られる。3武将とは中世の革命家・織田信長、信長の後を継ぎ日本を初めて統一した豊臣秀吉、豊臣家を崩壊させ江戸に幕府を開いた徳川家康だ。 この三人が活躍した1500年代の後半は群雄が割拠する戦国時代のさなかで、戦国武将は天下統一への野望を抱き互いに戦っていた。織田信長は愛知県の小さな城主の息子として生まれたが、少年のころは奇怪な行動を取ることから「うつけ(馬鹿)」と呼ばれていた。全国的に無名だった信長を一躍有名にしたのは「桶狭間の戦」だ。1560年、隣国の大国、駿河(現在の静岡県)の国の城主、今川義元が2万5千の大軍を率いて、信長の領地を目指して進軍を始めたことから戦いは始まった。 戦いといっても26歳の信長には4千の兵しかいない。とても勝ち目のない戦だった。この少数で今川の大軍に勝つにはどうしたらいいのか。信長はその答えを見つけた。2万5千の軍も谷を通るときには一列に並び、そのときは義元の守りも手薄くなる。その一点を襲えば、数の上で逆転できる。 桶狭間で義元が休憩している情報をキャッチした信長は、本隊が正面から突く構えを見せておき、抜道から兵を密かに義元の本陣に向かわせた。折からの豪雨も幸いし、織田軍は気づかれずに谷の側面に兵を進めることに成功した。次に、織田の少数の軍勢が義元の陣を襲うと見せかけて、義元の警護兵をおびき寄せた。そして、警備が手薄となった義元の本陣を大量の織田軍が襲いかかり、義元の首をとることに成功したのである。 信長はこの大勝利の第一の功労者を、今川義元の居場所を教えた者にした。これは当時としては画期的な判断だった。それまでは敵の大将の首を取ったものを第一の功労者としてきたからだ。信長の実力主義は徹底していた。当時は家柄が重んじられていたが、信長はどんなに卑しい家の出身であろうとも功績をあげた者を抜擢した。そのいい例が、百姓出身の豊臣秀吉だ。非常に合理的な考えの持ち主だった。 神も仏も恐れぬ所業 鉄砲を用いた信長の有名な戦いがある。「長篠の戦」だ。領土を拡大した織田軍に大きく立ちはだかったのが、甲斐(現在の山梨県)の武田軍だ。戦国最強といわれた武田軍は騎馬戦を得意とした。両軍は長篠であいまみえた。迎え撃つ織田軍を武田軍は騎馬戦で襲いかかった。 予想したとおり、織田軍は鉄砲で応戦した。武田軍に死傷者が出たが、武田軍はさらに進軍した。鉄砲は一回撃つと、火薬を詰めるのに数分かかるから、武田軍は一気に蹴散らせると考えていた。ところが、織田軍から2発目がすぐに発射されたのである。それでも武田軍は軍を進めたが、さらなる弾が飛んできた。織田軍から弾は連続的に発射され、武田軍は大敗を喫した。 信長は蓄えた銃を兵士に持たせ、三列に並ばせていた。最初の列は撃ったらすぐに三列目の後に並び火薬を詰める、今度は二列目が前列に来て撃ち、撃ち終わったら列の後ろに回り火薬を詰める。このようにして敵に向かって連射できるようにしたのである。 信長の非凡さは軍事面ばかりでなく、経済面でもその才能を発揮した。不必要な関所を廃止したり、城下で商工業者が自由に売買できるようにしたりして、街を繁栄させた。一方では、公家や寺院など既存の権力をことごとく排除した。そして自分に刃向かう敵や寺院を、焼き討ちや皆殺しで徹底的に破壊した。それは、神も仏も恐れぬすさまじい所業だった。 部下に対しても功績をあげぬ者には厳しく望んだ。信長の信頼を失ったことを悟った有能な部下の一人、明智光秀は身の危険を感じていた。信長に中国地方を攻めるように命じられた光秀は、途中で進路を変え、少数の部下と本能寺に滞在していた信長を襲った。信長は火を放ち自害した。享年49歳。天下統一目前の出来事だった。 |
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