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| 江戸を戦火から救った明治維新のヒーロー 西郷 隆盛 上野公園は屈指の桜の名所として知られているが、ここに犬と共に散歩する和服姿の男の銅像がある。日本人なら誰でも知っている西郷隆盛(1827〜1877)の銅像だ。彼は一体誰なのか? 1868年、京都から江戸(現在の東京)に進軍してきた天皇の軍隊は、260年続いた徳川幕府に最後のとどめをさすため、将軍のいる江戸を総攻撃する日を3月15日に決定した。彼らは将軍に代わって、天皇を中心とした近代国家を建設しようと立ち上がった勢力で、その指揮者が西郷隆盛だった。 日本の元首は代々、天皇と決まっていた。将軍は天皇から任命される軍事司令官であった。だが、武士の源頼朝が将軍となり、1192年に鎌倉に幕府を開いてからは、軍事だけでなく、政治も経済も将軍が実権を握るようになった。1603年に江戸に幕府を開いた徳川家康が将軍となってからは、代々徳川家が将軍の座に就いた。そして、鎖国政策や士農工商(武士を上位とし、順次、農民、職人、商人を下位とするカースト制度)など、独自の政治体制で日本を治めた。 しかし、19世紀の後半になると、江戸幕府は欧米列強に日本の開港を迫られ、一方では、日本の近代化を望む勢力が台頭してきて一大転換期を迎えることになった。近代化を推進する中心勢力となったのが、薩摩(西郷の出身地で現在の鹿児島県)と長州(現在の山口県)の連合軍だ。 薩長軍は幕府との戦いに、まだ威光の残っていた天皇を味方につけることに成功した。これにより、天皇の正式の軍隊を名乗ることができ、徳川家は反逆者となってしまったのである。その前年、危機を察知していた、最後の将軍となる徳川慶喜は、突然政権を天皇に返上した。慶喜は徳川家の影響力を残した形の近代化を模索していた。長い間幕府に政権を委任してきた朝廷に政治を運営する能力はなく、再び、幕府に政権を委任してくると慶喜は目論んだ。実際、朝廷はその処置に困り果て、慶喜が思った通り幕府に再度委任してはという論も出た。 敗軍の将への思いやり その危惧を抱いていたのが幕府側の実質的な意思決定者であった勝海舟。彼は部下の山岡鉄舟に降伏条件を提示した手紙を西郷に手渡すように命じた。鉄舟は禅と剣の達人で、命の危険も顧みず敵陣に入り西郷に面会した。その度胸に感服した西郷は総攻撃の前日、3月14日に、東京品川にある薩摩屋敷で勝海舟と面会した。これが後世まで語り継がれることになる西郷・勝会談である。 勝海舟は西郷に「薩長も徳川も同じ日本人。殺し会って何になる」と説いた。西郷は、勝の申し出を受け入れた。徳川慶喜が江戸城を戦わずして開門することで、江戸の戦火は避けられたのである。 その後、西郷は明治新政府の参議となったが、韓国への侵略をめぐっての論争で破れ、辞職して故郷の鹿児島に戻った。そこで、私学校を開き士族の子弟に教育をしていた。1877年、明治政府に不満を持つ鹿児島の士族が反乱を起こし、西郷は首領に担がれて政府軍と戦った。だが戦いに敗れ自決。享年50歳。明治維新のリーダーたちの中でも、人情に厚い西郷の人気は今日でも高い。 |
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